「何をしたいか」と「どうありたいか」の話
誰もがみんな、「自分」という物語を生きていて、
「自分」という主人公を演じている。
生まれた瞬間に、ある程度の舞台は決まっていて、
学生向けの小劇団のような舞台がある人はまだ恵まれている方で、
場合によっては、雨曝しの空き地みたいな舞台のこともある。
ある者はそれなりの台本と衣装と照明が用意されているのかもしれないが、
ある者は悲劇的な台本のみを渡される。やれやれ。
それでも「何をしたいか」という目的が明らかな人は幸せだ。
遠回りをしなくて、最短ルートで地道に目的地まで歩んでいけば良い。
その一方で「何をしたいか」という目的が不明確な人は大変だ。
行き当たりばったりで、行き着いた先が行き止まりなんてこともある。
ひどい時には、水たまりに足をすくわれ、獰猛な野良犬に睨まれるかもしれない。
平等とか公平なんてものは、まやかし程度にしか存在しないくせに、
世間や学校では「みんなで仲良く」とまことしやかに囁かれる。
その「平等主義」のコントラストで際立つように、
文字通り何もなくて、何をしたいかもない自分の輪郭が浮き彫りになって、
ある一定の年齢を経た時に気がつく、圧倒的な現実の惨さ。
そんな毎日の繰り返しで、第六感の鋭い人ほど悟ってしまう。
「どうせ、演じるだけ時間の無駄じゃない?」
極めて合理的で、的確な判断だ。
だから「どうありたいか」を考えれば良い。
きっとたぶん、裕福だった時代はもう終わっている。
これまでの蓄えを細々と消費しながら全うする時代だ。
仕事とか住居とか趣味とか家族や恋人、友人との時間とかのアレコレを、
自分のありたい姿に合わせてライフスタイルのポートフォリオを組んで、
年齢や体力の状況に応じて組み替えていくことが器用な生き方になってくる。
・・・みたいなことを、考えたりするものの、
何というか、それはそれで面白みに欠ける生き方のようにも思えてくる。
暑い夏が、ぼくたちの思考力を奪っていく。