変化と自分と、そして世界はぐるぐると回る話。
職場が変わり、住む場所が変わった2019年の初夏。
ものすごく久しぶりにスタバに来たのでブログを更新する。
特に目的もなく書いているので、まとまりがないことは、
ご容赦いただきたいことを最初に断っておきます。
人の思考は、付き合う人たちに影響を受けやすいとは思うが、
その最たるは『仕事』であると転職をして改めて感じた。
現職の人たちは仕事が好きとか、目標を達成するとか、
そういう当たり前のことを当たり前にできる人たちばかりで心地よい。
とある先輩が「人のストレスは限りなくフリーに近い職場だよ」と言っていたのが、
今の自分ならば、実感として理解できる。
人生の貴重な時間を投資する以上、やはりその仕事の時間は、
自分自身が納得できる場所で、時を過ごすことが、
当然ながら重要なのであるという結論に辿り着いた。
その一方、様々な巡り合わせの偶然があり、今いる場所に立っていると思うと、
まだ不思議な感覚というか、本当に自分の身に起きていることなのか、
時々分からなくなることもある。
過去の延長線上に、現在の自分がいるはずなのに、
環境が変わると、ここまでガラリと世界は変わるものなのかと。
思えば、小学校から中学校への変化や、中学校から高校への変化、
高校からその先の進路選択、、など、環境やコミュニティが大きく変化する場面は、
これまでの人生でも複数回、経験してきたことだ。
しかしながら、大人になって、ましてや社会人になってしまうと、
なかなかどうして、そういった環境変化というものは、
自分自身で企てて起こそうとしなければ、意外と少ないものであると今更ながらに気がついた。
ましてや、社内で一定の立ち位置についてしまうと、そこから見える景色は、
似たような同僚の顔や会議室、その会社で良しとされる考え方の癖に、大きく影響されてしまう。
人生100年の時代に、自分自身が100年も生きようなんてことは思ってもいないけれど、
世界と時代が変化する中で、自分自身はいつのまにか、茹で上がった蛙になってしまうわけだ。
自らの身を別の海へ投じた自分のことを、ある面で擁護するために、
そんなことを考えていたことに気がついて、溜め息をついた。
なんて、浅はかな思考なのだろうか。
自意識の高さに辟易もするが、何をどう繕っても、
そんな思考回路そのものが自分なのだ。
そもそも、どうしてそんなことを考えたのか。
たぶん、今の自分は新しい海に来て、潮の流れと泳ぎ方が変わって、
何となく泳げている気もするけれど、身体の使い方が不器用で、
無駄に力が入ってしまっているような感じがする。
そんな、まだあまり上手に泳げない自分を正当化したくて、
変化に身を投じたことそのものを正当化して、
刹那的な安心を得ようとしていたのだ。
だが、自分は知っている。
このアウェイな環境こそが、何よりも力をつけるのに最適の環境であると。
面白い仲間と、最適な環境で、ヘルシーな街に住み、
またイチから出直していくとしよう。