ひとりぐらし 〜家探し〜

「とにかく、環境を変えたい」

 

仕事に忙殺されていたある秋の日、疲労で朦朧とする頭の中に、ぼんやりと浮かんだ。

家に帰るとすぐに倒れ込むようにして眠ってしまっていた毎日。「また残業?」なんて、心配してくれてるんだろうけど、こちらからすれば余計なお世話な家族からの一言。満員電車に1時間近くも乗らなければいけない長い通勤時間。

 

別に仕事がいやなわけではなくて、むしろ今はがんばる時だし、大事な仕事だからこそ遅くまでやれていた。まだ、大丈夫。なんて強がっていても、自分がストレスを感じていることくらいわかっていた。大きな広告代理店では過労死した社員のことがニュースになっていた。なんだ、自分だけが仕事に忙殺されているわけじゃない。

 

でも、このままじゃ20代を仕事に蝕まれる不安もあった。

 

「とにかく、環境を変えたい」

 

会社と家。

自分が活動する時間の多くは、どちらかなんだけど、会社を辞めるつもりは今のところない。だったら、家を変えてみることが、自分には環境を変えるきっかけになるんじゃないか。

 

そんな安易な発想で、家探しアプリに住まいの条件を入力した。

 

いくつか条件を変えながら探すうちに、良さそうな物件を見つけて、仲介会社とのアポイントをセット。めっちゃ多忙な時期だったくせに、週末に家探しの予定を入れた。

 

仲介会社の扉を開ける。髪の毛の明るい20代〜30代の男女が大きな声で出迎えてくれた。

「確認してみましたが、もう他で決まっちゃってるみたいですね」

予期していたが、おとり物件。インターネットの時代、決まった物件情報は、即日に掲載削除の対応くらいして欲しいものである。

 

再び条件を伝えて、条件に当てはまる物件をレインズで片っ端から印刷してもらう。おびただしい量の紙が印刷された。うちの会社でそんなに印刷したら、管理部の人から痛い視線を感じるだろう。出てきた物件情報の中で、さらに精査してピックアップされた物件に、再度、仲介会社から連絡を入れてもらう。

 

「OKです」

 

「すみません、残念でした」

 

結局のところ、手元に残ったのは、2件のみ。

そのまま、内見することにした。

 

最寄駅まで移動して、ポストの前から仲介会社に電話をする。

「ダイヤルを今から言う番号の順に回してください。中に鍵が入っています」

内見に出せる人手がないからということで、営業マンの同行なしで内見をすることに。条件の良い物件はすぐに決まってしまうから、客は一人でも内見して、すぐに判断したい。ずいぶんと楽な商売だ。

 

ポストをあけると、管理会社の名前らしきものが刻印された茶封筒に、鍵が入っていた。取り出した鍵で、オートロックをあける。全く縁もゆかりもない土地の住居に足を踏み入れるのは、少しの緊張感と、ここが住まいになるかもしれない期待感で、ドキドキした。

 

1件目。

駅から近い。3分程だろうか。鉄道へのアクセス利便性は、かつてバスで駅まで通っていた自分にとっては、必要不可欠な条件。

部屋の中に入ると、清潔感のある白い壁と日当りの良い室内。

間取り、なんていうほど特殊なタイプではなくて、よくある1Kタイプの部屋だったが、第一印象は、大変良好。

 

2件目。

駅から歩く。歩きながら聴いていた曲が変わったあたりで、到着。

わりと、朝の通勤前を想定して早歩きで移動していたが、7分程だっただろうか。

この時点で、毎日のこととなると、ややテンションが下がった。

部屋の中に入る、その前に、エレベーターへのアプローチ部分に大きなゴミ袋が置いてあった。

「布団を捨てる時は、所定の粗大ゴミとして捨ててください。お心当たりのある方は〜」

どうやら、住人が廃棄のルールを守っていないらしい。集合住宅は、ゴミ置き場に住んでいる人の良識が反映されると思うが、堂々とエレベーター前に置いてしまう管理会社もいかがなものか。

部屋の中には、大きなクローゼットがあり、収納には便利そうだった。

しかしながら、間取り図を確認していた通り、角の部屋で斜めのレイアウト。暮らすには、家具の配置に困りそうだ。日当りも先ほどの部屋よりは、良くない。

 

結論は明白に分かれた。同じような条件の物件で、良い印象の部屋と、そうでもない印象の部屋を見た自分は、より一層そのコントラストで、1件目の部屋がよく思えてくる。これが、そのために仕組まれた内見だったのではないかと勘ぐってしまうほどだ。

「1件目の方ですね。かしこまりました。良いお部屋だと思いますよ」

洋服屋で試着すれば、お客さんに似合ってますよと言われるのに少し似ているなと感じながら、契約に関する手続き日の調整をする。

 

これで一歩、新しい世界に出られた気がした。